速読理論 エコー記憶 vs イメージ記憶 | SP速読学院

エコー記憶 vs イメージ記憶

 続いて、もう一つ実験をしてみましょう。
 次の小説を【1】心の中で音読してください。途中から、こちらの指示に従い、【2】場面をイメージしながら読む方法に切り換えてください。

『河童』 芥川龍之介
【1】心の中で音読してください

 三年前の夏のことです。僕は人並みにリュック・サックを背負い、あの上高地の温泉宿から穂高山へ上ろうとしました。穂高山へ登るのには御承知のとおり梓川を遡る外はありません。僕は前に穂高山は勿論、槍ヶ岳にも登っていましたから、朝霧の下りた梓川の谷を案内者もつれずに登って行きました。朝霧下りた梓川の谷を――しかしその霧はいつまでたっても晴れる気色は見えません。のみならず反って深くなるのです。

(中略)

 僕は水ぎわの岩に腰かけ、とりあえず食事にとりかかりました。コオンド・ビイフの缶を切ったり、枯れ枝を集めて火をつけたり、――そんなことをしているうちに彼是(かれこれ)十分はたったでしょう。その間にどこまでも意地の悪い霧はいつかほのぼのと晴れかかりました。僕はパンを噛(か)じりながら、ちょっと腕時計を覗いて見ました。時刻はもう一時二十分過ぎです。が、それよりも驚いたのは何か気味の悪い顔が一つ、円い腕時計の硝子の上へちらりと影を落としたことです。僕は驚いてふり返りました。すると、――僕が河童と云うものを見たのは実にこの時が始めてだったのです。僕の後ろにある岩の上には画にある通りの河童が一匹、片手は白樺の幹を抱え、片手は目の上にかざしたなり、珍しそうに僕をみおろしていました。

【2】これより先は、場面をイメージしながら読んでください。

 僕は呆っ気にとられたまま、しばらくは身動きもしずにいました。河童もやはり驚いたと見え、目の上の手さえ動かしません。そのうちに僕は飛び立つが早いか、岩の上の河童へ躍りかかりました。同時に又河童も逃げ出しました。いや、恐らくは逃げ出したのでしょう。実はひらりと身を反(かわ)したかと思うと、忽ちどこかへ消えてしまったのです。僕は愈(いよいよ)驚きながら、熊笹の中を見まわしました。すると河童は逃げ腰をしたなり、二三メエトル隔って向うに僕を振り返って見ているのです。それは不思議でも何でもありません。しかし僕に意外だったのは河童の体の色のことです。岩の上に僕を見ていた河童は一面に灰色を帯びていました。けれども今は体中すっかり緑いろに変っているのです。僕は「畜生!」とおお声を挙げ、もう一度河童へ飛びかかりました。河童が逃げ出したのは勿論です。それから僕は三十分ばかり、熊笹を突きぬけ、岩を飛び越え、遮二無二河童を追いつづけました。
 河童も亦(また)足の早いことは決して猿などに劣りません。僕は夢中になって追いかける間に何度もその姿を見失おうとしました。のみならず足を辷(すべ)らして転がったことも度たびです。が、大きい橡(とち)の木が一本、太ぶとと枝を張った下へ来ると、幸いにも放牧の牛が一匹、河童の往く先へ立ち塞がりました。しかもそらは角の太い、目を血走らせた牡牛なのです。河童はこの牡牛を見ると、何か悲鳴を挙げながら、一きわ高い熊笹の中へもんどりを打つように飛び込みました。僕は、――僕も「しめた」と思いましたから、いきなりそのあとへ追いすがりました。するとそこには僕の知らない穴でもあいていたのでしょう。僕は滑らかな河童の背中にやっと指先がさわったと思うと、忽ち深い闇の中へまっ逆さまに転げ落ちました。 (以下略)

 芥川龍之介の晩年の作品「河童」を取り上げましたが、いかがでしたか? 
 主人公の男は梓川のほとりで、河童に出くわします。灰色の腕に白機の幹を抱えた河童と、男はしばし見つめ合います。やがて気を取り直した男は、河童をつかまえようと飛びかかるといった内容の小説です。
 音読、場面をイメージしながら読む、を比較した場合、物語のシーンが鮮やかに思い浮かぶのは、どちらの方法でしょうか? 
 文章を読むとき、私たちは脳の中で言葉を音声やイメージとしてとらえます。人間が脳に情報をインプットするには、『音』による変換方法と『イメージ』による変換方法の二種類のシステムがあるのです。
 【1】の音読は言葉を音声化する方法、②は言葉をイメージ変換する方法です。両者にどんな違いがあるのか、検討していきます。
 【1】の方法で文章を心の中で音読すると、その音がまるでこだまのようにウェルニッケ中枢で反響します。
 『エコー記憶』と呼ばれる、音声の記憶です。
 記号や数字を憶えるとき、音読するとエコー記憶が働きます。単なる文字情報から音声に変換することで、情報は強い印象で脳に刻まれます。
 対して、【2】の方法で文章を読んだ場合はどうでしょうか。こちらは言葉をイメージに変換して、脳に情報をインプットする方法です。
 結論から言うと、物語の記憶を長く脳にとどめておけるのは、【2】の場面をイメージしながら読む方法です。
 言葉を音声化して情報をインプットするのは左脳です。言葉をイメージに変換するのは、右脳です。すなわち【1】の音読は左脳を意識的に使い、【2】のイメージは右脳を使う手法です。
 第一章でも説明した通り、右脳には記憶力が良いという特長があります。情報をイメージに変換して脳にインプットすると、記憶は長続きするのです。
 加えて、音読では、あまり読書スピードを上げることができません。
 言葉を音声化して処理できるのは、一分間に2,000文字くらいまでです。漢字やカタカナを黙読で読んだとしても、せいぜい分速3,000文字が限度でしょう。平均的な日本人の読書スピードは分速600文字なので、これでは四~五倍しか能力を伸ばせないのです。
 つまり読書スピードと記憶の両面において、【2】の場面をイメージしながら読む方法が有利だと言えます。

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