読書スピード計測


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　これまでに新井旅館は数多くの文人や画家が訪れ、長逗留して作品を完成させたりした歴史があることで知られ、心当たりの泉野親子三人が泊まっている吉野の棟には時代小説作家の川口松太郎や舟橋聖一が滞在して執筆した部屋がある。
　そういった伝統と格式のみならず、吉野の棟には一つの構造上の問題が存在した。
　位置的に表玄関から最も奥に引っ込んでいるので、もう一つ別の裏玄関が設けられており、ここから外に出て桂川の川畔などを散策することができるようになっている点である。
　川口松太郎や舟橋聖一も、構想に行き詰まると、ふらりと部屋を出て着流し姿で桂川べりを散策したと聞く。
　もちろん夜間には戸締まりして警備員も巡回し、外部からは入れないようになっている。
　しかし、今は十月、修善寺は紅葉が真っ盛りで、最も混雑する季節。
　夜桜見物ならぬ〝夜紅葉見物〟でふらりと裏玄関から桂川に繰り出す客が絶対にいないとは言い切れない。
　そのお客がアルコールでも入っていれば、注意力が散漫になっているだろうし、戻ってきた時に再びきちんと戸締まりしてくれるとは限らない。
　そのまま開けっ放しにして帰り、その隙を衝いて悪意を持った犯人が忍び込んで施錠し、館内の何処かに潜んでじっと目的を果たす機会を窺っていたとしたら？
　そこまで考えた時には、桂子はパソコンを予約係に任せて早足に吉野の棟に向かっていた。
　フロントのある月の棟を後に、渡りの橋を通り、雪の棟、花の棟と通過して吉野の棟に向かう。
〝最終目的地〟の吉野の棟に到るまでの経路をこれほどまでに長く感じたのは新井旅館で生まれ育って隅々まで熟知している桂子には、この三十年で初の経験だった。

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