速読書評『スタッキング可能』
矢成インストラクター書評『スタッキング可能』
松田 青子 (著)
192ページ
“あなた”と“私”は入れ替え可能? 小さかろうがなんだろうが希望は、希望。
日本社会を皮肉に照射する表題作「スタッキング可能」をはじめ、雑誌掲載時より話題の「もうすぐ結婚する女」など、たくらみに満ちた松田青子初の単行本。
【読書の所要時間】 1回目 15分(精読)/2回目 30分(熟読)
生き馬の眼を抜く世の中ですからこのような小説が出てきてもおかしくはないですよね。一見すると少し変わった登場人物ばかりだから、ニーチェやフーコが残した大衆嫌いのような印象を受けるけれども、これは窺い知ることの出来ない大衆の内面にふれた大衆賛歌のようでもある。群れを成して高々とそびえたつガラスやコンクリートのオブジェの中で働く人々が内側をむきだしにして繰り広げる短編集。恥ずかしいくらいに黄色く艶かしい自我の実を如何に武装すべきか。全編を通して悲しくもあり、逞しくもある人々の生き様に心ゆさぶられる小説である。
A田さん、B田さん、C田さん…。特定の誰か。ではなく、アノニマスな人々。この小説に出てくる人々に名前はない。ある型にはめられた人物像の集まりである。型にはめられるということは何だかつまらない印象を与えてしまうのかもしれないが、ここに出てくる登場人物につまらない人物は一人としていない。むしろ人間的とも、動物的とも言い表せる人々ばかりで独特の雰囲気を醸し出している。無秩序に増殖していく都市の中で秩序を保ったビルがそびえ立ち、その中である秩序に基づいて管理され、それに適うように振る舞い、その心の奥底では秩序に抗う人々という、人間的なんだか動物的なんだか分からなくなりそうなほどに入れ子にされた社会構造が現実と理想の狭間で葛藤する社会の有り様を示しているようにも思えてくる。人間はどこからどこまで管理?意識?出来る領域を広げていくのだろうかと、それでも捉えることの出来ない領域は存在し続けるのだろうかと深々と物思いに老け込んでしまいそうになる。
この人はこういうタイプだからと決め込んでかかることは人口の稠密した社会ではある程度仕方のないことなのかもしれない。幼い頃に「他人は分からないからこそ面白いのに!」と仕事帰りの母が何に対して愚痴を言っていたのかわからないけれども、この小説を読みながら、かつての働く女性の声として記憶の奥底からこだまのように響いてきた。そもそも自我をむきだしにして世の中を闊歩している人などいるのだろうか。人は誰しもこの小説の人物のように何かしら武装しながら外と対峙しているのではないだろうか。悪そうな人も、人の良さそうな人も、ロラン・バルトのいうエクリチュール(言葉遣い)のようなものによって形成されたパターンを纏いながら『私』というものを振る舞っているにすぎない部分も少なからずあるのではないだろうか。
個人的にはこの短編集のもつ匿名性から露わになった『むきだしの自我』とでもいうべきものの憶測でしか語れない部分にとても魅かれました。ロジェ・カイヨワの遊びの定義の1つに偶然性、予測不可能なことが挙げられているけれど、そうであるなら他人との対話は遊びの側面もあるとはいえないでしょうか。わかりあえない部分があるからこそ人との対話は面白い。名前のない人々が行き交う雑踏の中で、私もまたその一人となって、息詰りしない程度に絶妙なバランスを保ちながら永遠に読むことの出来ない他人との対話を楽しみたいものです。
(矢成インストラクター 2013年4月)