SP式記憶術レポート(京都教室 M.O様)
初見の本(一冊または一部)を何度か読みます。その後、本を一切見ずにブレインマップを作成し(省略可)、要約や感想文を書き出します。
『日本を創った12人(前編)』堺屋 太一 著
書籍の一部を熟読で一度だけ読み、アウトプットを行いました。
「習合思想」
過去、世界の国々で、異教が流入した時は争いが起こり、決してそれらの国々の宗教と融合する事はなかった。例として、ローマやギリシャのジュピター信仰やドイツのゲルマン信仰に対し、キリスト教」が流入した時も争いが起こったし、インドに対するイスラム教流入時も同じである。
ところが、日本では飛鳥の時代に聖徳太子が出現し世界で唯一といえる「習合思想」というものが生まれた。
太子の時代、物部氏が行った神信仰に対し、仏教導入を回廊とし、蘇我対物部氏の戦いで太子は勝利したが、決して神を汚すことはしなかった。元々、太子は天皇家の一員である、推古天皇の15年には「敬神の詔」を出している。又、日本で始めての官僚制度といえる「官位十二回の制」や「十七条憲法」も定めている。「十七条憲法」にある「和をもって貴しとなし、忤らうこと無きを宗となす。人皆党有」は習合思想の精神を表しているといえる。
戦国の世、織田信長が比叡山を焼き討ちしたが、それは天台宗や一向宗の弾圧ではなく、信長への忠誠を誓わなかったからである。
以来、日本人の心はその精神が脈々と受け継がれているのではないだろうか…
ただ、何事についても言い訳ばかりで穏便に済ますというのはちょっと違うと思うのだが… ここぞという時には、責任をもった態度が必要なはずである。今の政府に勘違いしないでと言いたい!
「愚策に終わった三成」
豊臣家を軽んじる徳川家康を何とか倒したい三成が仕組んだのが関ヶ原の合戦だった。
ただし、家康はかつて豊臣家五大老筆頭であり、三成は五奉行にすぎず、現代で言えば大企業の社長と平取くらいの差がある。このため、三成は西の大大名の毛利輝元を総大将に担ぎ出し、宇喜多秀家を実行部隊長に迎えた。三成はいわば脚本家である。
西軍として大坂城に集結したのは16万もの大軍で、250万石の家康軍は8万人弱であったにもかかわらず、誰が指揮をするのやら分からず意思統一ができていなかった。大坂城に集められた大名たちも本気で家康と一戦交えようと思うものは少なかったようだ。
実際、合戦で動いたのは西軍の一部であり、毛利軍は家老の吉川弘家が背水の陣を敷き軍を動かさず、小早川秀秋は徳川に寝返った。これで一気に徳川有利となって西軍はあっけなく敗れた。
総大将の下、しっかりと統率されていた家康軍に対し、終始三成方は様子を伺うばかりで結局最後まで戦ったのは三成懇意の部隊ばかりで、その戦は三成方の敗戦ではあった。
現代でいうなら「官僚や役員」が戦いの策を立てる、このスタイルは現代に引き継がれていると堺屋さんは言います。そういう意味で日本式のスタイルを三成は作ったのではないかと…
私は三成の失敗はもっと別のところにあったように思う。もちろん豊臣家重臣といえども平取(奉行)が大軍を率いることなど元々困難なことであったし、何よりも人望(人徳)がなかったとされている。味方の大名からも敵対視されてました。一方家康は豊臣恩顧の大名からも慕われていた。
現代に置き換えても企画か骨かで大事であるのは言うまでもありませんが、それを動かしてゆくのは人であり、組織の中心にいる人達(或いはトップ)に人望が必要とされるのは一緒だと思います。
「光源氏の章」
光源氏の政権は言わば日本の村社会の原型のようなものであり、集団的合意で動く日本の政治や経済の現状とつながっているのではないか…
外国では政治家も経営者もトップは全責任を負うのが当たり前である。それに対応した報酬を受けるし、失敗すれば、たちまち失脚するか解雇である。
ところが日本はたいがい事務局などの執行部任せで、社長は床の間を背にどんと座ってあまり細かい事を言わないのが大人物とされているような風潮がある。失策があっても、責任の所在が不明確で、これが事なかれ主義にもつながっているとも言える。
日本でも戦国時代や幕末のころは協力なリーダーが出現し、国づくりに動いた。戦後の激動期も多くの指導者がリーダーシップを発揮し、日本の再生に尽力されたが、戦後30年も経つとワンマン創業者たちはしだいにいなくなり、後には安定を求める官僚タイプの幹部たちが残ってきた。自己責任がかかるのを嫌い、集団で合意をはかり、動かしていくというのだが…。
誰も責任を取らない社会は停滞と混沌を生むばかりで反省も発展もない。
皮肉にも今の政治の現状をぴったりと表しているのではないか。多くの国民が協力なリーダーを求めていると思う。今はまさに、平成の維新が必要な危機的な時代に入っているのではないか。
「人質から大御所へ」
人生とは、まことにどうなるか分からないもの、天下人家康の生涯は波乱に満ちていました。
父は岡崎の一豪族に過ぎず、家康は6歳の時に隣国遠江の今川方に捕えられ忠誠を誓わされていた。妻(於大の方)を今川方からめとらされたが、それがのちに悲劇を生んでいる。元康(家康)の転機は桶狭間の合戦、織田信長の父、信秀に仕え今川義元を亡くし弱体化した今川方の遠江を攻め、この時一挙に60万石大名躍進した。信長が尾張を治めてからは固い同盟関係を築いていたが、今川方の妻をめとっていたことから嫌疑をかけられ、この妻を殺し、嫡子を自害させている。
本能寺の変の後、信長亡きあとも秀吉の天王山の合戦などの迅速な行動により、天下を伺う機を逃してしまっている。小牧・長久手の合戦で秀吉に反旗を翻すも結局は忠誠を誓わされている。やがて秀吉が亡くなってからようやく天下取りへの道が開ける。
関ヶ原の合戦を経て2年後、晴れて征夷大将軍となり、徳川幕府を開いたがわずか3年で引退し秀忠に征夷大将軍の座を譲り、駿府から大御所として天下を操るようになった。
ただ、気になるのは二代目秀頼が健在な大名、豊臣家である。幕府を開いてから約10年後、策をめぐらし大阪夏の陣でついに豊臣家を滅亡に追い込んだ。2年後、安心した様に、家康は息を引き取った。75歳であった。今でいうと93歳くらいになるという。
歴史に「もしも?」を言ってもしょうがないかもしれないが、家康が秀吉より先に死んでいたら、江戸の泰平の世と成熟した元禄文化はなかったでしょう。或るいは関ヶ原で西軍が勝利していたら?いつまで経っても日本は統一されていなかったかもしれない。この時代、何よりも日本を統一することが、求められていた。
信念を失わず、粘り強く生き抜けば、いずれは夢は叶い或るいは歴史の舞台にも上がれる事もあるんだと肯定的にとらえて生き抜くべきでしょう。